オカベの歴史History

会社沿革

1900年(明治33年)創業。歴史の長さが信頼の証し。

明治33年 神奈川町埋地の遊郭が反町(青木町)に移転、この頃から初代鳶岡部留吉を中心に反町遊郭に関係する建築仕事に関わりを持つようになる。
大正10年 小机街道につながる、当時賑わいをしていた平川町通り(二ツ谷通り)に、大工の石丸棟梁と共に初代留吉は仕事の幅を広げる。
昭和4年 反町遊郭が反映をしていたこの時代、二代目岡部清太郎が貢献する大門通りに14軒、滝の川沿い裏門通りに7軒が軒を連ねていた。図1
昭和20年 第二次世界大戦のため、反町遊郭と滝野川の間にあった自宅件置き場を一時、青葉区川和町(鉄町)に移転。しかし、三代目岡部由次郎は反町に残る。
昭和26年 現在の本社住所である場所に、反町から神奈川区旭ヶ丘8番地11号へ移転する。図2
昭和30年 横浜駅西口周辺の土地をスタンダード石油から相鉄鉄道が土地を買い取り、この頃から本格的に、西口開発が始まり、天理教(天理ビル)などを現在のタクシー乗り場から、現在の場所へ曳き屋(家を壊さずに移転)を、四代目七郎、五代目清を中心になり工事に関わり、今日の横浜西口駅前の原型を作り上げる。また七郎、清は国道一号線の区画整理にも大きく関わりを持った。図3,4
昭和31年 神奈川区青木町5番地にある洲崎大社も第二次世界大戦戦災のため本殿を焼失。
氏子である鳶岡部代々のかしら(親方)が中心となり、洲崎神社の再建復興を昭和31年6月に行いました。この功績を称えられ、神社入口階段の右側に石碑を建立。 図5
昭和39年 同年1月10日に三代目岡部由次郎が亡くなり、歴代のかしら(親方)のなかで最大かつ盛大に葬儀が行われ、関東一圓から参列した親方衆と共に、町内中をキヤリの掛け声で練り歩き、鳶職らしい葬儀を行う。
昭和42年 高度経済成長期、古い建物を残す時代から新しい建物をつくる時代に変化する中で、四代目七郎の曳き屋(家を壊さず移動)の仕事から、五代目清の基礎工事を中とする新しい建物をつくる時代に少しずつ仕事内容を変え始める。
平成2年 同年2月1日に有限会社鳶工業岡部を設立。代表取締役に五代目清が就任。
またこの頃から、六代目雄一郎と実弟千香良(現在専務取締役)を中心に大規模改修工事、すなわち足場仮設専門業者として動き始める。
平成13年 すでに平成8年頃、神奈川区にて資材置場(第一)を購入していましたが、平成13年に念願の第二資材置場として神奈川区を確保でき、全面アスファルト、トイレ、水道完備、荷降ろしに必要なフォークリフトを導入。これにより、受注先も大幅に増え始める。翌年、第一置場も全面アスファルトを施工。
平成17年 同年10月1日株式会社鳶工業岡部に社名変更。代表取締役に五代目清に代わり、六代目雄一郎が就任。同年12月には、本社屋を建て替え、事務的面からも現場をサポートする環境が整備できるようになる。図6
平成21年 同年2月に相模原市に足場仮設専門業者(県内)としては、かなり大規模な資材置場を完成させ、周囲にセキュリティを配備し、大型トラックの荷降ろし可能な機能を有するヤードとして動き始める。図7
平成24年 10月24日、法人化として初めての代表取締役社長であり、晩年まで会社の財務管理を行い、株式会社鳶工業岡部の礎を作り上げた、鳶職のかしら(親方)としては五代目の岡部清が亡くなる。
平成26年 長年にわたり株式会社鳶工業岡部を支えてくれた協力業者に加え、近年は新規の協力業者も増え、同年7月1日に安全衛生協力会を設立。初代会長に有限会社中原建設代表の中原幸一氏、副会長に株式会社生建総業代表の金井強一氏を中心に、業界ナンバー1の安全意識とハイクオリティー作業を目指し、安全衛生協力会の運営を行い始める。図8
平成29年 4月、リニューアル工事部門を強化し事業部とする。
7月、更なる業務効率化を目的とし、旭区上川井に4ヶ所目の資材置場を完成させた。
9月1日「株式会社オカベ」に社名変更。